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クラウドの真のインパクト 〜 XaaSやプライベート・クラウドを覚えただけで安心してしまわないために 〜
本質をつかめていないクラウド・コンピューティングの説明
クラウド・コンピューティングの解説記事が多数出ているが、本質やこれからの変化をつかめていないものがあまりにも多い気がする。
「雲のようにつかみどころがないもの」といった一時期の説明はなくなってきた。しかし、今度はIaaSやSaaSのようなXaaSのサービスの種類や、プライベート・クラウドのようなクラウドの種類を説明しただけの記事が多くなって来ている。
クラウドの本質は、データの記憶装置や処理装置をネットワーク上のどこかに置いて、それをどこからでも、まるで電気のように利用できるようにすると言うものだ。この業界に長くいた人は、この説明を聞くと、どこかで聞いたような説明だと思うかもしれない。そう、これは、ユビキタス・コンピューティングとグリッド・コンピューティングを足した説明になっている。
では、クラウドは、これら2つのバズワードが合わさっただけと理解すればよいのだろうか? そうではない。この2つが、成長し、お互いの欠点を補いあって、新たなコンピューティング時代の幕開けの宣言が行われたと理解すべきである。
なぜ、ユビキタスやグリッドがバズワードで終わったか?
ユビキタスという言葉が一時期流行ったが、結局何の変化も実感できずに終わった。どこでもコンピュータを利用できるようにと言うのがユビキタス・コンピューティングだ。しかし、これの実現には、
- どこでもネットワークが利用でき、
- 手軽に持ち運べる情報端末が存在し、
- データはネットワーク上に保管されている
状態が必要である。しかし、流行った当時は、
- まだモバイル通信は高価で、しかも低速で、
- 持ち運べる情報端末は、ノートPCのようなちゃんとしたコンピュータであり、
- ネットワーク上のデータ保管手段は、高価なサーバのディスクに保管するしかない
状態だった。これでは、ユビキタスの実現は無理としか言い様がない。
グリッドも、何の変化ももたらさなかった。これも、
- 計算能力が必要量に応じて購入でき、
- サービスとして提供できる、標準的なOSやプログラミング言語が存在し、
- オフィスや自宅以外の場所でも利用したくなるような動機が存在する
必要があった。だが、
状態であった。
あれから何が変わった?
しかし、今では、
- 高速で安価なモバイル通信が存在し、
- スマートフォンのような、パソコンではない情報端末が増え、
- サーバ上のストレージも安価になり、
- 仮想化技術によってサーバ1台分未満の計算能力を購入できるようになり、分散処理技術の発達によって価格にほぼ比例した計算処理能力を得る事ができ、
- CPUやOSやプログラミング言語も多数派が存在(x86のCPU、Linux、Java言語がデファクト・スタンダードになりつつある)
するようになってきた。こうなると、ユビキタスやグリッドが失敗する理由がない。
クラウド・コンピューティングの人々へのインパクト
クラウド・コンピューティングに関係する人々は3つに分けられる。エンドユーザとサービス提供者と、データセンター事業者である。これらの人々は変化し、これらの人々を相手に商売をしてきた企業は変化を迫られる。
- エンドユーザは、今までPCに保存していたデータをクラウド上に保管するようになり、アプリケーションを個々の端末にインストールするのが面倒になってくる。すると、これらの人々にアプリやUSBメモリ等の外部記憶装置を販売していた企業は変化を迫られる。
- サービス提供者は、サーバ、ネットワークやストレージ装置を自前で持つ事はコスト的に合わなくなってくる。そして、システムをクラウド上に移管するようになる。こうなると、ハードのベンダーや保守管理担当者は対応を迫られる。
- データセンター事業者にとっては、クラウドと言うものは存在しない。大量のリアルなハードを以下に安く調達し運用していくかが課題となる。ハードを一番安く調達できるのはメーカーである。このため、データセンター事業にメーカーが本格的に参入してくる可能性がある。既存のデータセンター事業者は、安く運用する能力でメーカーに対抗していくように迫られる。
間違ったクラウドの理解
このように利用形態を考えると、プライベート・クラウドはクラウドの考え方には合わないものである。
また、サービス提供者にすると、もはやハードウェアを手放したのだからOSの管理も手放したくなるだろう。というよりも、OSの管理をやめて、サービスの価格を下げた事業者が競争に勝てるようになる。よってデータセンター事業者は、Infrastructure as a Service(IaaS)ではなく、Platform as a Service(PaaS)のようなサービスを提供すべきであろう。
ただし、セキュリティや、大量の負荷に耐えるPaaSがあるのかと言った問題のため、プライベートクラウドやIaaSも一時的には存在できるだろう。
クラウドのOSへのインパクト
クラウドの時代には、多数の人々へサービスを提供したものが勝者となる。多数への提供には、大量の負荷に耐えうるようなプラットフォームが必要になってくる。この変化はOSにも影響をもたらす。OSの2つの大きな役割は
することである。
しかし、これからのOSは、大量の負荷に耐えるために分散処理が必要になり、
- コンピュータの個々のデバイスを管理し、
- 多数のコンピュータを管理し、
- 多数のコンピュータを、1台のコンピュータに抽象化したものをアプリへ提供
することが求められるようになり、分散処理の為の階層が必要になるだろう。
クラウドのプログラミング言語へのインパクト
現在のプログラミング言語は基本的に一つのCPUで実行される事を前提にした設計になっている。(分散処理のライブラリ等が存在するが、文法等は基本的に一つのCPUで処理される時代を引きずっている) 現在では、CPUのクロック数は頭打ちになっており、性能向上は分散処理に頼るしかない。
このためクラウドの時代には、分散処理をしやすいような文法体系やライブラリがプログラミング言語に求められるようになるだろう。
クラウドのハードウェアへのインパクト
分散処理が前提となると、これまでのコンピュータシステムのハード構成も変更が必要になる。
ここ10年程度、Storage Area Netwark(SAN)の導入のような、データの集中管理が行われてきた。しかし、大量のデータを分散処理しようとすると、このSANによる集中がボトルネックとなってしまう。
また、分散処理では数台のコンピュータは壊れるものと言う前提でプラットフォームを構築する必要がある。こうなるとコンピュータ単体での信頼性を上げるために、ハードウェアを冗長化するメリットが少なくなってくる。こうなると高価なサーバの必要性は薄れてくる。
そうなると、再び、さらにダウンサイジングした分散システムが、流行ってくる。
まとめ
以上のようにインパクトを考えると、クラウド・コンピューティングは、メインフレームからオープンアーキテクチャへの変化以来の20年ぶりの大きな変化の波であると予想できる。しかし、ここまで予想している解説記事はないようだ。
本、ホームページ、ブログ、そしてTwitter 〜 Twitterは壷を埋める最後の水? 〜
最近、Twitterにはまっている。最初に見た時は、地面に穴を掘って底に向かってつぶやくシステムのような印象を受けてしまって、誰が使うのだろうと思っていた。
タイトルに書いたように、情報発信・収集の手段が増えてきている。この流れを少し整理して考えてみた。
情報発信のコスト、情報量の閾値の低下
Twitterは、情報発信のコスト(手間)を大幅に引き下げた。
本の場合(特に洋書)は、本の初めの謝辞の部分に、本を書くにあたり家族に迷惑をかけたとの記載が多い。和書でも、編集者に苦労をかけたとの事が書かれている事が多い。
ホームページを作る事が流行った時期でも、ホームページの更新のために、友人等と過ごす時間を削っている人がいた。
ブログの場合、手間がだいぶ減ったが、文章の構成等を考えないと読んでもらえないので、それなりに考えて、投稿する必要がある。
Twitterの場合、文章の構成を検討する必要がある程の長いものは書けない。このため、Twitterで発信するための時間をあえて作る必要がない。(返信に時間をかけている人もいるが...)
また、情報を発信するための情報量の最少量を引き下げている。
本は、100ページ以上の量がないと出版されない。ホームページでは、10ページ分以上の量がないと巡回してもらえないだろう。ブログの場合でも1ページ分ぐらいの量がないと、読者になってもらえない。(改行がやたらと多いブログがあるのは、そのせいだと思う)
Twitterの場合、最大で140字分である。本のように1つのテーマである程度のネタの分量がないと発信できないということはない。
新着情報の取得の容易化
Twitterは、新着情報を取得する手間を減らした。
本の新刊情報は、広告や新刊予定のパンフレットや書店の店頭で確認する等の手間がかかった。ホームページでも、定期的に見に行くか、自動巡回ソフトを使って確認しないといけなかった。ブログてもRSSリーダーを使えばある程度は楽に見れるが、RSSリーダーを起動する必要があるし、どのRSSを読むかを考えなければならなかった。
Twitterの場合、タイムラインを追うだけで、全てのフォロー対象の人の情報を取得できる。しかも、自分が発信する時に同時に最新情報の確認ができる。ブログ等の場合、ブログを読む時間と書く時間は分かれているが、Twitterの場合は、これらが同時に行われる。
情報のS/N比の低下
ただし、Twitterにも向かない事はある。手軽に情報発信される分だけ、有用ではない情報を読む事になる。
本の場合は、出版社が情報の有用性について、ある程度は判断してくれている。ホームページやブログの内容は、Google等の検索システムが規則に基づいて判定している。
Twitterのつぶやきの場合は、判定する方法が少ない。
フォローされている人の数で判断する等の方法もあるが、有効とは限らない。
壷を埋める最後の水?
改めてこれらの変化を見ると、情報量が段々と小さくなってきて、消費する時間が短くなっている事が分かる。
この事を考えると、壷にものを埋めていく話を思い出す。本が石で、ホームページやブログが砂で、Twitterが水なのかもしれない。それから、本当に大切なのは、本を読む時間をちゃんと確保する事ではないだろうかと。
マーケティングの4つのP
製品(Product)、価格(Price)、流通(Place)、プロモーション(Promotion)
『フラット化する世界 [増補改訂版]』を読み終えた
『フラット化する世界 [増補改訂版] (上)』を読み終えた。
もっと、早く読んでおくべきだったと後悔。本屋ではよく見かけていたのに...
アメリカで起こった事は10〜20年ぐらいしてから、日本でも起こるというのが今までの状況だったけど、これからは数年しか違わなくなってくる気がする。
フラット化の波は、この不況の間にはやってくるだろう。ただし、言語の壁が、この波を少しは和らげると思う。
でも、それが日本をグローバル化の波に乗れなくしてしまう原因にもなるだろう。
自分自身をどうやってグローバル化に対応させるかが重要課題になる。如何に、小が大を演じていこうかな。共同作業は苦手なんだよな。こうなったら、徹底的に新しいツールに対する適応者となって、梃子の力を利用するしかないかな。
書籍のフリー化と電子ブックリーダーの可能性 〜『生命保険のカラクリ』を「フリー」で読んでみた 〜
『生命保険のカラクリ (文春新書)』のPDFファイルが、無料でダウンロードできるのでダウンロードして読んでみた。
本の内容については、「死差益」、「逆ざや」と言う単語が分からない人(特に若い人)にはお勧め。週刊誌等がときどき書いている生保の批判の記事をよく読む人は知っている事がほとんど。
(自分自身としては、昔の貯蓄型の保険はお得だったんだと驚いた。社会人になりたての頃、ニッセイのおばちゃんに、払い込んだ金額よりも少ない金額しか戻ってこない貯蓄プランを勧められて、からかわれいるのかと不思議に思った事がある。)
ここからは、この本をフリー(無料)で公開する事について考えてみる。
この本のフリーは著者の立場だと、『フリー~〈無料〉からお金を生みだす新戦略』で説明されている「直接的内部相互補助」のパターンである。
要は、商品に関する読み物(自社製品を使った料理のレシピ)を無料で配っても、自社製品を買ってもらえるなら、それで良いというと言う戦略である。
出版社には、無償公開は良くない結果をもたらす可能性がある。
無料でダウンロードして目次を読んだ段階で感じた事に、「この本の著者は、ネット販売の生保の副社長だった。既存の生保を批判してネット販売の利点を書くのは当然だな。こういう本を、お金を払って購入するのは変だよな。」という思いがある。
ネットでの無料情報と出版社の本との最大の違いは、出版社がその本の内容をある程度は保証している点にある。自分としては多分、この本がライフネット生命のホームページからダウンロードできるだけだったらダウンロードしてなかったと思う。
こういう事に人々が気づいてしまうと、「この本は、ちょうちん記事ならぬ、ちょうちん出版物ではないか?」と疑ってから、今後は購入しないといけなくなる。本の中で「われらがライフネット生命」とかの記述を見てしまうと、どうしても疑ってしまう。
もっとひどくなると、この本は著者からお金をもらって出版している本ではないかとの疑いまででてしまう。そうなると、出版社が持っていたネットの無料情報に対する最大の優位性が失われる危険がある。
そう考えると、この本は一部のみの無償公開にして、無料公開はあくまで本を売るための手段であって、ネット販売の生命保険の広告ではないと印象付けておくべきだったと思う。
本のフリーについてはここまでにして、ここからは、PDFファイルをタブレットPC(正確にはタブレット機能付きのモバイルPC)で全文を読んでみた感想を。
iPadが発表されてから、電子出版への期待が高まっている。電子出版はどうなるかわからないけど、iPadは日本では売れないと思う。
あの重さとサイズは失敗である。うちの妻は、私がハードカバーの小説を買ってくると嫌な顔をして、「なぜ、文庫版が出るまで待てないの? 重たくて私が読めないじゃないの。」と言ってくるぐらいである。日本の女性にはiPadの重さは絶対に許されないと思う。
Appleのデモ映像では、ひざの上に乗せて使っている。これは、かっこいいからではなく、その姿勢でないと使えないからだと思う。iPadと同程度の重量のPCを使っていたけど、姿勢は同じ。
本は寝そべって読む自分としては、これはつらかった。通勤中の読書にも使えないと思う。(座席に座れれば大丈夫だけど...)
サイズも大きすぎると思う。本のサイズは文庫版かバイブルサイズが理想的ではないかと思う。アメリカでは、新聞を電子ブックリーダーで読みたいと言う需要があるからあのサイズみたいだけど、紙の古い習慣を引きずっているだけだと思う。
文字そのものの見易さは、問題なかった。新書をWVGAの解像度(1024×600)で読む分には解像度は問題ないようだ。A4サイズのマニュアルのPDFファイルをモニタで読むと、明朝体の字が特に読みにくくつらいので、いつも印刷して読んでいた。新書サイズの場合はそういう事はないようだ。
文庫版サイズで、軽くて、XGA程度の解像度の電子ブックリーダーなら結構売れるのではないかと思う。ただし、読みたい本が少しは安く買えるようになっていないといけないが...
日本のメーカーはこの安く買えるという部分を実現できないだろう。これは、Appleでないと出来ない気がする。